2015年01月14日

2015年1月11日主日礼拝説教

「信仰によって励まし合いたい」

フラッシュプレイヤーの見えない方
《あなたがたに会いたい》

ローマの信徒への手紙を読み始めています。使徒パウロの手紙は他にも読みましたから、その最初のところにあいさつが記され、また祝福の言葉が告げられる。他のパウロの手紙と同じだとも申し上げたのです。

しかしその当たり前の手紙の差出人使徒パウロの名前にすぐ、僕、正確には奴隷という言葉がついていて、ここは驚くところだとも申し上げたのです。わざわざ自分は奴隷だとパウロは言う。主キリストの奴隷だと言っている。しかしまた自分の主人を持っている喜びを知るべきである、と言う、スイスの牧師リュティの言葉も紹介しました。

この手紙の後の方には、私どもキリスト者は主キリストのために生き、主キリストのために死ぬ。それだけだ、それがキリスト者の生き方なのだという言葉もあると申し上げました。

そしてそれはまた私どもはキリストのものである、というあのハイデルベルク信仰問答でとても良く知っている仕方で言いあらわされますキリスト者の生き方だとも申し上げました。

そして前回最後のところの祝福の言葉であります。私どもが、みなさんが、「神に愛され、召されて聖なる者となった」ものであると言っていたことです。

みなさんが、あなたが、今、神様に愛されている。
あなたは今神様から召し出されて、聖なる者となっている。

これがパウロが私どもにも宛てて記した手紙の最初のところだったのです。

そして今日のところに続きます。そこに記されますのはパウロの神様への感謝の言葉です。

まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。
わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、
何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。
(ローマの信徒への手紙第1章8−10節)

何よりもパウロが感謝すること。それはローマの教会の人々の信仰です。こうして信仰をもって、今、キリスト者として生きている。暮らしている。そのことについて感謝しているわけです。

パウロの言葉は私どもにもあてはまると思います。私どもに宛てられた手紙でもあるからです。パウロ先生が神様に感謝しますと言って下さっている。私どもが信仰を持って、今、こうして浦賀教会に集い、神様の御言葉を聞き、神様を賛美し、神様に祈っているからであります。パウロはローマの教会の人々の信仰が全世界に言い伝えられているとも言っています。私どもの信仰は全世界に言い伝えられているでしょうか。

昨日の午前1時40分現在で、2010年からほぼ5年間で20770ヒット。教会のホームページのことです。それだけの回数人々が見て下さっている。その9割は北海道から沖縄まで日本の方ですが、後の10パーセントは、アメリカ、イギリス、ヨーロッパ各国はもちろん、中国、韓国、タイ、シンガポール、カンボジア、ベトナム、インド、パキスタン、オーストラリアのアジア諸国から、ケニア、南アフリカ、

昨日というか今朝方見てあらためて驚いたのは、これらに
モンゴル、ルーマニア、グルジア、アルジェリア、ボリビア、ウルグアイ、パラグアイが加わっており、さらに浦賀教会の祈祷会の紹介のページまで見れば、さらにこれらにグアム、メキシコ、イスラエル、エジプト、ガーナ、スェーデン、ノルウェーが加わっていたのです。立派にここに浦賀教会があること、私どもが信仰も持って歩んでいますことが全世界に言い伝えられていると言って良いのではないでしょうか。

時間、空間を越えて、パウロ先生は私どものために祈って下さっている。

そしてこればかりはかないませんが、ローマの教会に対する願い、メッセージは。

何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。(同10節)

そしてこれが、この手紙が、ローマの信徒への手紙が記された理由のひとつなのです。パウロはローマの教会を訪問したいと願っている。神様がそうさせてくださるのなら、ローマの教会をたずねたい。その思いを手紙を通して告げているのです。

私どもはその願いが、あの使徒言行録の最後のところでついにかなったことを知っています。ローマ帝国の囚人として護送された果てにではありましたが、

パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、
全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。
(使徒言行録第28章30−31節)

自由に、誰にもさまたげられることなく、ローマで人々と会い、また語り合い、そして何よりも、神の国を宣べ伝え、主キリストについて教え続けたと記されていたのです。

今、ローマの教会に宛てて書かれた手紙での思いは、実現していたことを知っているのであります。

《霊の賜物》

会いたい思い。何よりも同じような信仰者に、ましてやローマという大都市で、時に迫害を受け、厳しいこともある中で、しっかりと信仰をもって歩んでいる人たちに会いたいというのは、私どもにも良くわかる思いだと思います。

ある人、ということもないかもしれません。私が神学生時代に教会史を学んだ、当時ルーテル神学大学の先生であった徳善喜和先生がパウロの訪問とは、「心からの、信仰の兄弟としての訪問である。主にある平安を問い、信仰に生きる喜びを分かち合い、確認し合う」ことと書いておられたのです。

だから私どもが他の教会の人々と出会う機会は大切だと思います。一年に何回は神奈川連合長老会の教会員の方々と出会う機会があります。秋の信徒修養会では、他の教会の年配の教会員の方々の話を分団でうかがうことができて、教職側である私も、とても励まされた思いがありました。またその時のお話をする機会があればとも思います。

何よりも、10月には、改革長老教会協議会の訪問で、東北地方の教会をたくさん訪問することもできました。それこそその時の話をする機会があればと思っているのです。

東北は震災を経験し、その地域、地域によって、大きな困難、課題を与えられた教会が多いのです。そのような教会で頑張っている先生方、支える教会の方々、会って、お話ししまして、いろいろと考えさせられ、また何よりも、励まされました。

そしてパウロがローマの教会へ行きたい。それもまさにそこにあったのです。

あなたがたにぜひ会いたいのは、”霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。(ローマの信徒への手紙第1章11節)

この賜物と訳された言葉はもとのギリシャ語ではカリスマという言葉だということはもうしあげたと思うのです。私どもがもしかしたら日常的に耳にする、もしかしたら使うカリスマという言葉とはずいぶん違うと思います。でも聖書の中のカリスマとは賜物という言葉なのです。いやむしろここでは「霊の」という言葉が補われていますが、キリスト信仰の言葉遣いで使う時、カリスマという言葉だけで「霊の賜物」という意味にもなるのです。ですからわざわざ「霊の」と補いましたのは、カリスマとは、私どもキリスト者が神様からいただいた、他の何ものでもない、正真正銘の「まことの霊の賜物」であると強調して言っているのです。

カリスマという言葉。「賜物」あるいは「霊の賜物」と訳される言葉はキリスト者の言葉遣いであり、その言葉の源は全くパウロ。他ではまったく使われない言葉だったそうなのです(J・ダン、ワード注解)。

霊の賜物とは何か。それはまず神様の恵みを体現するものだと言います。

こういう言葉もありました。神様が私ども人間に対して示してくださるおおらかで力強い顧みのことであって、神様の恵み、神様の恵みを通してした私どもの経験、それを具体的に、どんなことでも、どんなふうに言いあらわすとしても、それがパウロの言う「カリスマ。賜物」ということなのだと言うのです。

パウロはその霊の賜物を、分け与えたい、と言うのです。私はこの分け与えたい、という語が少しひっかかります。何かパウロ先生がたくさん持っておられ、そしてそれを分け与えてくださる。そういうイメージがする言葉遣いだからです。もちろん翻訳上の問題はないのでありますが。むしろ分けたい。分け合いたい。分かち合いたいと私は訳したいのです。

パウロ先生も霊の賜物を持っている。ローマの教会の人たちも霊の賜物を持っている。私どもも同じであります。それぞれがそれぞれに霊の賜物を持っている。キリスト者でありますから。

今、パウロ先生は自らの霊の賜物を、ローマの教会の人たちと会い、喜び合って、そして自分が受けた賜物を、さらに皆と分け合いたいと言っているのです。それはなぜか。

「力になりたい。力づけたい」。こう言うのであります。

ここにひとつ大切なことが隠されています。それはみなさんがもうすでに信仰をもっていること。信仰を植え付けられていることです。だからパウロがしたいこと。パウロの願いはそのすでに植えられている信仰をさらに力強いものにしたい。だから「力づけたい」と書いたのです。

他の教会の人たちと会い、話をし、また話を聞いて、この私自身も力づけられたと申し上げました。まったく同じことです。パウロも訪問する教会の人々を元気づけたい、力づけたいのであります。霊の賜物を分かち合うことによってです。

分け与える、という言葉に違和感を覚えたと申し上げましたが、パウロも実は同じだったのかもしれません。続く12節の言葉は、新共同訳ではまったく訳されていませんが、もともとは言い換え、言い直しの言葉なのです。

あなたがたにぜひ会いたいのは、”霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。(同11節)


こう言いまして、パウロは原文では、「それはつまり」とか、「むしろこういうつもりで言っているのです」と言い直して、

あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。(同12節)

こうなるのです。霊の賜物を分けたい。分かち合いたい。それは、私の信仰の賜物と、あなたがたの信仰の賜物を持ち寄って、お互いの信仰によって、励まし合うことをしたい。
こう言っているのであります。


《励まし合うこと》

お互いが持っている信仰によって励まし合いたい。

この励ますと言う言葉は、パウロの手紙にも、他の書物にも出て来る言葉です。

慰める、とも訳せる言葉なのです。そうなりますと私どもがハイデルベルク信仰問答を通して知っている言葉です。励ます。力づける。勇気を与える。この言葉に共に、一緒に、お互いに、という言葉を付けた言葉が、ここで励まし合うと訳されているのです。そして聖書のここでしか用いられない言葉なのです。
でも日本語で励まし合うという言葉がたくさん出て来る書物はテサロニケの信徒への手紙一です。テサロニケの教会では問題が起きていたのです。信仰の仲間が亡くなる。そういう経験でありました。主の再臨、主が再び来られる待ち望みは切迫していました。もうすぐに主の再臨がある。そういう信仰でした。しかしそんな中で信仰の仲間が亡くなって行く。

兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。
イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。
(テサロニケの信徒への手紙一第4章13−14節)。

私どもは希望を持っている。だから希望を持たない人々のように嘆き悲しまないで欲しい。信仰を持って、主イエスを信じて眠りについた人たちは必ず復活する。そうパウロは述べるのです。15節以下には具体的な私どもの復活の状況さえ記されます。

すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、
それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。
(同16−17節)。

そしてこう述べて。この言葉によって。

ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。(同18節)。

この言葉によって励まし合いなさい、とパウロは言うのです。励まし合うという語は、ロマ書の場合とは違って一語ではなく、互いに、励ます、との二つの言葉からなっているのですが、新共同訳聖書では同じ、励まし合う、という語で訳されているのです。テサロニケ一書の4章に続く5章では、その復活の時、終わりの時のことが語られ。

主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。
ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。
(同5章10−11節)。

主が死なれたのは私どものためである。それは生きる時も、死ぬ時も、私どもが主キリスト共に生きるようになるためである。ハイデルベルク信仰問答ままの言葉です。そして言うのです。だからお互いに励まし合いなさい。そしてここが重要です。現に、今、そうしているようにと言っているのです。現にそうしているように、お互いに励まし合いなさい。私どもの教会も同じなのです。私どもが今、そうしているように、信仰の仲間の死に際しても、そして私どもが出会う、さまざまな信仰の戦いにおいても、今、そうしているように励まし合いなさい。

《用意ができている》

今日の終わりのところに再びパウロの願いが強く記されます。そしてそれがこの手紙を書いた理由でもあるのです。

兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。
(ローマの信徒への手紙第1章13節)

パウロはローマの教会へ行きたいのです。しかし今それを妨げられている。だからこの手紙を書いたのです。そして15節の言葉です。

それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。(同15節)。

先ほどの徳善先生がこんなことを書かれていたのです。ルターが用いたラテン語訳の聖書では、ここのところが。

「このように私の内には用意ができている。
 ローマにいるあなたがたにも福音を伝えたいのである。」

こうなっていると言うのです。

今妨げを受け、未だかなってはいないのですが、自分の願いであるローマ訪問のためには、もうパウロは自分の内で用意ができていると言っているのです。

またそれは私どもの姿であるとも言えるのではないでしょうか。今日、今、ここから礼拝を守り出で行く私どもであります。それぞれの家庭で、生活の場所で、働きの場所で、福音を携え持って行く、その準備がもう私どもの内では出来ていると言うのですから。



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2015年01月06日

2015年1月4日主日聖餐礼拝

「神に愛され召されたあなた」

フラッシュプレイヤーの見えない方
《Gruess》
新年2015年を迎えました。2014年の浦賀教会では、教会員のご家族の中に、そしてご自身にありましても変化があったのではないかと思うのです。特に愛するご家族をみもとに送りました悲しみはいくばかりのものかと思うのです。

そのような中で新しい年を迎えました。今年も教会員の皆様と励まし合い、また信仰を感謝し、それを支えに新しい2015年を歩むことができればと願います。

そう言いつつ、教会の暦は11月の終わりに既に新しい年に替わっていますし、教会の年度は3月まで続きます。そのような中で2015年私どもの浦賀教会は4月6日に60周年を迎えます。大きな計画をしたわけではないのですが、記念誌の作成と記念の礼拝を進めておりましたが、駅に看板が立ち、教会の墓地も、遅れながらも2週間ほど後の引き渡しの約束をいただいております。励みになります。

アイネン・グーテン・ルッチュ・インス・ノイエ・ヤール
 Einen guten Rutsch ins neue Jahr!
良いお年を、

アイン・エアフォルグライヘス・ウント・ゲズンデス・ノイエス・ヤール
 Ein erfolgreiches und gesundes neues Jahr!
そして新しい年が実り豊かで健康な年でありますように

《キリストの奴隷》

今日から読み始めますローマの信徒への手紙もあいさつの言葉で始まります。今まで読んで参りましたいくつかのパウロの手紙と同じです。これは当時の手紙の書き方に従っているのだと申し上げたのです。差出人使徒パウロ。宛先はローマの人たち。そして神様と主キリストからの恵みと平和とがありますように、とのあいさつの言葉で今日の7節が終わっています。

でも第1に差出人パウロの名前です。これも他の手紙と同じように言葉が加えられ、パウロとはどういう人であるかが記されているのです。

「キリスト・イエスの僕」(ローマの信徒への手紙1章1節)という言葉が記されます。この言葉はここだけに出て来るわけではありません。むしろパウロが好んで用いた言葉だとも言えると思います。でも注意をしないといけませんのは「僕」と訳されたもともとの言葉デューロスは奴隷という意味の言葉だと言うことです。ここはむしろ「キリスト・イエスの奴隷」と記される方がふさわしいと思うのです。当時、ローマの時代の奴隷と言いますのは、必ずしも私どもが想像するような、過酷な労働や虐待の対象だった奴隷とは違うのだということを申し上げましたが、それでもなお主人に仕え、主人の財産であったこと。ですから、ここで「僕」あるいは「召使い」という意味の言葉は他にあったにもかかわらずパウロははっきりと「奴隷」と言っていることは意味があると思うのです。そこにはすぐこの後に出て来る言葉でありますが、この私はもう「キリストのもの。キリストの所有物になってしまっている」という強い意味があるのだと思います。

ローマの信徒への手紙を読みながら、スイスの牧師ヴァルター・リュティという人の説教の言葉も紹介したいと願っています。時代としては序文に1955年と書いてありますから60年も前の説教でありますが、とても分かり易い、ローマの信徒への手紙は難しいなどという感想がふっとんでしまいそうな説教です。この人は水曜夜の祈祷会の中ではしばしば紹介しています。その創世記の説教は日本語の訳があるのですが、手元にあるドイツ語のローマ書説教の訳はないようです。ですから私の手元の書物から紹介することになると思うのですが、この奴隷、というところでこんなことを言っているのです。

つまり主人を持つことの幸せです。私どもはキリストという主人を持ち、この私はキリストの僕であることの幸せです。リュティは家に主人がいること。国に政府があることの幸せを言います。もしかしたら現代日本のキリスト者は別な感想を持つかもしれません。むしろ自分を支配する主人がいない自由こそ幸せと言う主張もあるかもしれないからです。

でも一方でローマの信徒への手紙が、そしてこれからも繰り返し出て参りますが、ハイデルベルク信仰問答が、主人を持たない、むしろ自分が主人の生き方が幸せであるかどうかという問いかけを続けていることは忘れてはいけません。むしろパウロは、キリストが主人であることの幸せへと、これから私どもを導いてくれるのだとも思います。

ならば手紙のずっと後の方に有名な言葉もあります。

わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。(ローマの信徒への手紙第14章8節)

もうこの私パウロは自分のために生きているのではない。主キリストのために生きている。主のために生き、また主のために死ぬ。「キリスト・イエスの僕」とはそういう意味の言葉なのです。

加藤常昭先生はまたここにこの手紙が、パウロという名前が差出人として書いてありますが、キリストの僕、キリストの奴隷ということにおきまして、この手紙は、それならパウロ個人の手紙ではない。むしろキリストの手紙。主キリストが私どもに宛てた手紙と考えて良い。そう記されておりました。確かに私どもはパウロの手紙を読み続けておりますが、手紙には差出人パウロの名前と、今回も宛先となったローマの教会の名前がありますが、この手紙は主キリストが私どもに宛てた手紙である。それは申し上げ続けてきたことでもありました。

《召されて使徒となったパウロ》

そのパウロが召されて使徒となったと記されています。召すという言葉は、誰かを呼び寄せる、招く、呼び出して仕事を与える、の意味の尊敬語であるそうです。私には日本語よりもここで用いられるドイツ語の言葉の方が良く分かります。ベルーフェンというドイツ語なのですが、神様の召し、神様の召命の意味で用いられる言葉です。職業の意味のベルーフは日本語にもなっていることはご存じだと思います。ただ職業とは神様からの召し出しなのだという力強い言葉であることは、日本語とは違います。

ですからパウロの言葉は、神様から召し出されたのだという力強い信仰の告白であります。
そしてまたそのことは、今日の最後のところにも出て来るのでありますが、私ども皆すべてに共通の告白でもあります。

私どもも、この私も神様から召されて信仰を持つに至った。そしてキリスト者、信仰者としてここにいるという信仰であります。私どもが勝手に思い思いに、しかも気が向いたらここにやってくるというのではありません。神様に呼び出されたからこそここにいるという信仰であります。パウロはそのように召されて使徒となった。

リュティがこの使徒という言葉についても次のようなことを言っています。この使徒という言葉はもともとは戦争の言葉だった。敵が迫っていること。あるいは攻撃を仕掛ける時も、言葉を持って行った人のことを使徒/アポストロスと言ったのだと言うのです。ですから使徒と言う言葉は先頭を切って知らせを伝える人です。戦いの言葉です。切り込んで行くのです。そしてその言葉は次の福音という言葉ともつながります。

《神の福音のため》

この福音という言葉も既にお話しした言葉です。ギリシャ語のエヴァンゲリオン。エウというのは良いの意味で、アンゲリオンは知らせという言葉です。良い知らせ、良いおとずれ、という言葉が日本の教会では好んで用いられます。英語のGood Newsであります。

ただこれが先立つ言葉と結びつきますと使徒パウロはこの福音を、つまり良い知らせをたずさえて先頭を切って、今ローマの教会の人々のところへ行きたいというのであります。まだそれがかなわないからこの手紙を書いていると言うのであります。

ですからこの手紙がキリストの手紙。私どもにとっても良い知らせ。グッドニュースだというのでありますから、主キリストは、神様は、ここに書いてある内容を、良い知らせを、私どもに真っ先に届けたい。そういう内容の手紙だということになります。今週から読み始める手紙の内容はそういう内容なのであります。


《福音の内容》

その内容について2節以下に書いてあります。

この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、
御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、
聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。(同1章2−4節)

この福音はずっと昔から、聖書の中で神様が約束されたものであること。

クリスマスの出来事をクリスマスの季節に読みましたが、その通り、ダビデの子孫から生まれたあの飼い葉桶に寝かされた御子のことだと言うのです。

そして何よりも、死者の中からの復活と書いてあります。ルカ福音書で読みました通り、十字架にかけられ、死んで葬られ、そして三日目に復活されたお方。神の子イエス・キリストのことが、この福音の内容だとパウロは言っているのです。

これも既に申し上げたことがありますが、パウロにとって福音とはイコール救いの意味もあるのです。こうも言えます。福音を聞く。福音を信じる。それはつまりその内容であるイエス・キリストのことを聞くことであり、イエス・キリストのことを信じることなのです。そしてキリストを信じることによって生きる、私どもの生き方がある。キリスト者としての生き方がある。だから救われた生き方であり、福音イコール救いと言えるのだと思います。


《キリストのものと召されたあなた》

5節でパウロはまさにそのことを言っています。

わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。(同5節)

異邦人つまりユダヤ人ではない人たちのために。たとえばギリシャ人、たとえばローマ人を指しているのです。その人たちに福音をキリストのことを伝え、信じて従うように、神様の恵みを受けて使徒とされたのだと言うのです。

加えて申し上げますと、この恵みと言う言葉は、クリスマスの季節に読んだ言葉です。

それは神様の好意を受ける、神様の愛をいただくという意味の言葉だと申し上げました。

そしてまたこの「恵む」という言葉は「喜ぶ」という言葉と切っても切れない関係がある言葉だとも申し上げたのです。「恵み」とは私どもを喜ばせるもの、喜びを生み出すもの、それが「恵み」という言葉の意味だったのです。

この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。(同6節)

そのようなユダヤ人でない人たち。その中で主キリストのことを耳にし、そして信じるようになったあなたがたがいる、とパウロは言うのです。でも言葉遣いはそれだけではありません。

あなたがたは、イエス・キリストのものとなるように召されたのだ。こう言っているのです。

召されるについては既に申し上げました。神様から呼び出されたのです。そして呼び出されて、あなたがたはイエス・キリストのものとなった、と言うのです。

私どもは「キリストのものとなる」という言葉遣いについては良く知っているはずだと思うのです。ハイデルベルク信仰問答です。そしてこのことはこれからも繰り返し出て来ることになるのですが、ハイデルベルク信仰問答は、ローマの信徒への手紙をひな形につくられている書物ですから、ハイデルベルク信仰問答の言葉遣いとローマの信徒への手紙の言葉遣いには深い深い関わりがあることがすぐにわかると思うのです。

私どもが神様から召し出されたのは「キリストのものとなる」ため。そしてハイデルベルク信仰問答はそのことをどう言っていたのか。「キリストのもの」であることが、私どものただひとつの慰めである。そう言っていたのです。


《神に愛され召されたあなた》

神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。(同7節)

さて最初に申し上げました通り今日の終わりのところは、私どもが礼拝の終わりで聞く言葉とそっくりのあいさつの言葉、祝福の言葉で閉じられるのです。

でもここが一番大切だと思います。「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち」とあるのでありますが、最初に申し上げましたとおり、この手紙はパウロにとどまらないキリストの手紙なのだ。ローマの人にとどまらない、あなたがたの、あなたのための手紙であるということです。

みなさんが、あなたが、今、神様に愛されていること。あなたが今神様から召し出されて、聖なる者となっていること。この祝福の言葉を、礼拝の最後に今一度聞くことになりますが、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」の言葉を受けて、今日2015年1月最初の日曜日からローマの信徒への手紙を読み始める歩みを始めたいと願います。
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2014年12月30日

2014年12月28日主日礼拝説教

「わたしたちは神の子です」

フラッシュプレイヤーの見えない方

《ブルームハルトの祈りに添えられた箇所》

今朝の聖書の箇所はガラテヤの信徒への手紙からです。もう何ヶ月にも渡りまして、パウロの手紙を読み続けて参りましたが、ガラテヤの信徒への手紙は読むつもりはありませんでした。学長から新卒の神学生に対して、最初からこの手紙は読まない方が……読んだ強者もいるようですが……と逆の意味で勧められる、そういう手紙でもあります。それはどうしてかと言いますと、パウロ先生の厳しいお叱りの手紙だからです。

フィリピの信徒への手紙を読みました時に、それこそ逆の意味で参照しました。フィリピの信徒への手紙の冒頭が感謝と喜びで満ちているのに対して、ガラテヤの信徒への手紙ではその冒頭から。

わたしはあきれ果てています。 (ガラテヤの信徒への手紙第1章6節)


こんな具合なのです。パウロがガラテヤの教会について、あきれ果てている、後にも先にもこんな言い方をする教会はないのです。もともとは強い驚きの言葉ですが、あきれ果てている、こう訳されているのです。

加えて申し上げますと、なぜあきれ果てているかにつきましては、

キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。(同)

という訳ですから。ガラテヤの教会におきまして、パウロの告げる福音、教えから離れてしまう出来事があったこと。それを指してパウロは他の福音に乗り換えようとしている、とガラテヤの教会を叱責していることがわかります。パウロにとっては福音イコール救いでありますから、これは致命的なことなのです。

さてではなぜ今日突然ガラテヤの信徒への手紙を読みますかと言いますと、それは毎週毎週週報に載せております、ブルームハルト牧師の夕べの祈りの、今日12月28日のための祈りに添えられました聖書の箇所がガラテヤの信徒への手紙4章4節以下だからであります。

《水曜日の祈祷会に》

考えてみましたら毎週水曜日の祈祷会がそうなのです。どの聖書の箇所が取り上げられるかはわかりません。同じ聖書の書物が続けて読まれることはまずありません。でも私はそれで良いとも思います。その日に与えられた聖書の箇所と、そしてまた祈りの言葉を読むことは新鮮でさえあると思います。

今日、この聖書の箇所が与えられた。この祈りの言葉が与えられた。驚きもあります。発見もあります。そして何よりも、私どもの祈りと、あるいは置かれている状況や問題と重なり合うことも多いのです。

祈祷会で尋ねられ、またしばしば答えることですが、なぜこの聖書の箇所なのか、この祈りのこの言葉の意味は何なのか、そう問われましても、具体的にはわからないことも多いのです。明らかにブルームハルト牧師が、何らかの課題問題をもって、あるいはその祈りの場所にいる他の人たちの課題問題を取りなして祈っているのです。でもではその課題問題は具体的に言って何なのかはわかりません。

それでもなお、私どもの祈りや置かれた状況と重なると申し上げますのは、ブルームハルト牧師の祈りが優れているがゆえだとも思います。

そしてまた聖書というものはそうだと思うのでありますが、そしてまた私どもの信仰がそういうものだとも思うのでありますが、その日その日に与えられた偶然とも呼べる聖書の箇所が、私どもに、この私にとって、大きな意味を持っている、そういうことがあり得るのです。

しばらく前に読みましたテモテへの手紙二の終わりのところの、ボンヘッファーという人にとってがそうでありました。

そしてまたこれについてはいつか詳しくお話したいと思いますが、日本でも愛され読まれておりますLosungen、日々の聖句という書物がまさにそうだったのです。ローズンゲンという書物の聖書の箇所はくじで選ばれたものです。しかしその言葉をヘルンフートの村の教会の役員たちは教会員の家を回って、その御言葉を伝えたと言うのです。今日、その御言葉を掲げて一日の生活をするために、その御言葉を手渡したのです。当時、電話も、ましてやメールも、コピーも印刷機もありませんから、そうしたのです。

ですから、私どもにとりましては、この日曜日の聖書の箇所、あるいは週報に記しましたブルームハルト牧師の祈りの聖書の箇所が、私どもが今週掲げる聖書の御言葉と言って良いと思います。パウロ先生にあきれ果てていますと言われてしまっては困りますが、必ず、礼拝で、あるいは週報で与えられます聖書の言葉は、私どもがこれから一週間の歩みの中で、必ず何事かを指し示してくれる御言葉であると、私は確信をしているのです。

《ガラテヤ4章》

実は昨年も年末年始は私どもの聖書を味わう歩みの一区切りでありました。使徒言行録を読み終え、パウロの手紙を読み始めようという時でした。その一区切りに二回ほど、ブルームハルト牧師がその日のために祈った祈りとそれに添えられた聖書の箇所を味わったのです。今回も来年はじめから同じパウロの手紙のローマの信徒への手紙を味わいますが、今年の終わりに、もう一度ブルームハルト牧師の祈りをその聖書の箇所を味わいたいと願ったのです。

仕方はですから水曜日の祈祷会と同じ仕方です。ですからまず聖書の箇所を味わうことにします。今日12月28日のために与えられた聖書の箇所です。

これは祈祷会の時にも繰り返し申し上げたことですが、なぜ今日、ガラテヤ書のここなのかは、これも分からないのです。もしかしたら何年なのか、12月28日にブルームハルト牧師が祈った祈りであることは間違いないようではありますが、この聖書の箇所は、ブルームハルト牧師が亡くなった後、その近親者の間で、記念のために夕べの祈りが出版される時、編集者が付した聖書の箇所かもしれないのです。

しかし一方で祈りの言葉を読み続けておりますと、その祈りの言葉と、付された聖書の言葉との重なり合いが感じられることが多いのです。いや聖書の言葉そのものが祈りの中に出て参ります。すべてではないかもしれませんが、この祈りの言葉はブルームハルト牧師が選び添え、そして祈ったのだとも思えるのです。

ですから今日、今はガラテヤ書に戻ります。

ガラテヤ書4章になってもまだパウロの叱責が続いているのでしょうか。手紙の内容は、冒頭にパウロが記しましたまことの福音からはずれること、まことの信仰からそれることについて記され続けます。信仰を持たなかった時になぜ戻ってしまうのかと問い続けるのです。

でも今日の4章4節の少し後、4章8節以下では、信仰を持たなかった頃への逆戻りということさえ言われます。しかしまた信仰をもったそのはじめの時のことを振り返りもします。12節ではガラテヤの教会の人々との最初の出会いのことも記します。

そこには「兄弟たち、お願いします」との言葉もあるのです。信仰から離れて行ってしまったなら仕方ない。ではないのです。自分のこととして、自分の悲しみとして、お願いします、との言葉でももって、ガラテヤの教会の人たちが戻ってくることを願っている。そういう筆致も読み取れるのです。


しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。(ガラテヤの信徒への手紙第4章4−5節)

主なる神。私どもはあなたに、私どもが見、また聞くことが許されているものすべてを感謝致します。どうか私どもの心を、私どもが持っているものにおきまして、生き生きとしたものとならせてください。それにより究極のものを待ち望み、その究極のものの中に、すべての人間、すべての民、この地上のすべての人間の種族に対しての、あなたの究極の御心を見ることができますように。この私どもの日々の中で、私どもの願いをお聞き届けください。なぜなら私どもは、あなたの御国が来ますことを知っているからです。あなたの御国は私どもの目の前にあるのです。あなたの御言葉、あなたの助けは来るのです。そしてイエス・キリストにおいて全世界に光が昇るのです。あなたの御業がたたえられますように!すべてが私どもの目の前に示されますように。それにより私どもが終わりの時を待ち望みますことが生き生きとしたものとなりますように。うれしい、祝福された待ち望みとなりますように。喜びをもって、大きな楽しみと愛をもって、あなたの栄光のために来ます、終わりの時を待ち望みますように。アーメン。


今日のための祈りに添えられたガラテヤ書の言葉、それをそのまま読みますと、私どもが祝ったばかりのクリスマスの言葉と言えなくもありません。神がその御子を私どもにお遣わしになったと書いてある、しかも女からと、つまり人間の女性を通してお遣わしになったと書いてあるからであります。ブルームハルトの祈りではしばしば、教会の暦にあったテキストが選ばれることもあるからです。

しかしパウロはクリスマス、ここで御子キリストの誕生を律法の下に生まれた、と敢えて言うのです。人間は神様が人間に与えられた律法の下に生まれた者であるに違いないから、キリストもヨセフ、マリアの下に生まれたお方であるからです。

そしてキリストが律法の下にお生まれになった理由は律法の支配の下にある者を贖い出すため、私どもを神の子となさるためでした、と言うのです。

だからなぜ再び、律法の支配下に戻るのか?とパウロはガラテヤの信徒への手紙の中でガラテヤの教会の人々に問うわけです。律法からの解き放ちを経験したのに、なぜ再び律法、律法がとあなたがたは言っているのか?

でも私どもにとりまして、今日の祈りの中でクローズアップされる部分は、私どもの主キリストが人間の子としてお生まれになった理由は、私どもを神の子とされるためであった、という部分だとも思います。

《ブルームハルト父子》


ブルームハルトの名前が呼ばれますが、通常、ブルームハルト父子と親子でならべられることが多いのです。そしてまた、欧米人にはしばしばですが、その名前が似通っていてややこしいのです。父親がヨーハン・クリストフ・ブルームハルト。息子がクリストフ・フリードリヒ・ブルームハルトです。「夕べの祈り」は父でなくて、息子の方、クリストフ・フリードリヒ・ブルームハルト、普通、クリストフ・ブルームハルト著と記されます。この父子は共に、牧師で、たいへん敬虔な信仰深い歩みをした親子でありました。また多くの人びとに影響を与えた親子でもあります。

実はこの息子クリストフ・ブルームハルトの「夕べの祈り」は、必ずしも広く一般に向けて出版されたものではなかったのです。

南西ドイツ、シュトゥットゥガルト(シュツットガルト?)という名前の町は、日本でも知られている名前だと思うのですが、その近くにありますバード・ボルという町がブルームハルトにゆかりの深い町でありました。そこに家の教会と呼ばれる共同体を持ち、たくさんの人が関わりを持ったのです。カール・バルト、エドゥアルト・トゥルンアイゼン、時代はもっと遡りますがヘルマン・ヘッセが過ごしたこともありました。

そこで晩年を過ごしていたクリストフ・ブルームハルトが、毎日の夕方、祈りの会をもっていて、その時に祈られた祈りを、ブルームハルトの死後、ごく近しい人びとのために残すために刊行した。それが「夕べの祈り」であったのです。

出版されたのが1920年。クリストフ・ブルームハルトの死が1919年でありますから、亡くなった翌年出版されたことになるのです。ある日の祈りの中で、ブルームハルト先生が、「私どもの生涯を通じて、あなたが、どれだけ善いものを注いで下さったことでしょう!」と祈る時、それが、ブルームハルト晩年の祈りだということに感銘を受けます。1919年に亡くなったのが77歳の時ですから。80年近く生きて来た、その祈りですから、たいへんな重みを感じるのです。晩年に守っていた祈祷会での祈りです。それが、感謝に満ち溢れたものであるとは、何と恵み深いことでしょうか。


《私どもは神の子供たちです》

Wir sind Deine Kinder! 私どもはあなたの子供たちなのですから!

Kinder/キンダーという言葉は日本の子供書籍の題名でつかわれていた言葉ですから覚えて頂いても良いかと思います。子供たちという意味の言葉です。

ブルームハルト牧師の祈りを読み続けていますと、この言葉が何度繰り返し祈られてきたことかと思うのです。そしてまた、私どもは神様の子供たち、と言いますのは間違いなくブルームハルト牧師にとって大切な大切な言葉、考え方、旗印であったのです。

ただ今日の祈りの言葉にはそのまま出て参りません。むしろ神の子たちと呼ばれる人はどのような信仰を持っているのか。そういう祈りでもあると思います。いつもの祈祷会のように読んでいきたいと思います。

主なる神。私どもはあなたに、私どもが見、また聞くことが許されているものすべてを感謝致します。

まず感謝が祈られます。いつもそうなのです。私どもが見聞きすること。そのすべてを感謝しますと祈るのです。

どうか私どもの心を、私どもが持っているものにおきまして、生き生きとしたものとならせてください。

加藤先生はいつも「いのちあるものとなる」と訳されるlebendigを少しくだいて「生き生きとしたものとなる」と訳させていただきました。注目するべきは、……をください、……してください、ではなくて、私どもが今すでに、持っているもので、私どもの心を生き生きとしたものにしてくださいと祈っているところです。

それにより究極のものを待ち望み、その究極のものの中に、すべての人間、すべての民、この地上のすべての人間の種族に対しての、あなたの究極の御心を見ることができますように。

letzteの訳は加藤先生の「究極のもの」をいただきました。最後のもの、最終的なもの、もっと具体的に「終わりの時を待ち望む」も考えたのですが、究極の語を用いました。そしてこれはアドヴェントの心だとも思います。究極のものを待ち望むこと。そして神様の究極の御心、御意志を見たいとの祈りであります。

この私どもの日々の中で、私どもの願いをお聞き届けください。なぜなら私どもは、あなたの御国が来ますことを知っているからです。あなたの御国は私どもの目の前にあるのです。あなたの御言葉、あなたの助けは来るのです。そしてイエス・キリストにおいて全世界に光が昇るのです。あなたの御業がたたえられますように!

クリスマスの祈りの言葉遣いです。そしてそれは神の御国が来ますことと言っているのです。しかもその御国は目の前にあると言います。そしてそれはどういうことか。あなたの神様の御言葉が今ここに与えられている。神様の助けが今ここに来ていることだと言うのです。

すべてが私どもの目の前に示されますように。それにより私どもが終わりの時を待ち望みますことが生き生きとしたものとなりますように。うれしい、祝福された待ち望みとなりますように。喜びをもって、大きな楽しみと愛をもって、あなたの栄光のために来ます、終わりの時を待ち望みますように。アーメン。

終わりの時の待ち望みが生き生きとした待ち望みになる。うれしい、祝福された待ち望みとなる。喜び、大きな楽しみとと愛とをもった待ち望みとなる。そう祈るのです。

私どもの新しい2015年の歩みがそのような生き生きとした、うれしい、喜ばしい、楽しい待ち望みの日々となりますよう心からお祈り致します。















posted by かたつむり at 15:04| 主日礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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